2017年04月03日
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東日本大震災の被災者支援プロジェクト「JKSK結結プロジェクト」が、東京新聞への連載を通じて被災地復興の様子を伝える「東北復興日記」。今回は、2016年10月4日に掲載された記事を転載し、避難指示が解除され帰還した方の様子から、元の生活に戻れていない現状をお伝えします。
戦国時代まで大名・相馬氏の本拠地で、浮舟城と呼ばれた小高城があった福島県南相馬市小高区は、東日本大震災当日から住めない町になりました。福島第一原発から20キロ圏内の避難指示区域となり、着の身着のまま避難を余儀なくされ、戸惑いと混乱があったに違いありません。
2016年7月12日、原発事故から5年4カ月ぶりに解除になり、駅前を中心に約1万3千人いた住民のうち、千人に満たない高齢者たちを中心に帰還しました。
私が主催するニットサークルに通う70代後半の女性は、帰る意志が強いご主人と2人だけで帰還しました。住民がいる家は一番近くでも約500メートル離れていて、「明かりが見えない生活になった」と嘆いています。その女性は車が運転できません。買い物に出るには大型スーパーまで15キロもあります。駅前に店がオープンしましたが徒歩で30分ほどかかり、毎日の暮らしには不自由さが残ります。
週末に訪ねてくる娘には「生きのいい魚が食べたいとせがむの」と女性は言います。「自分の田んぼは津波の塩害で、もう米作はできないだろう。この年になって、他所から米を買って食べるようになるとは夢にも思わなかった」とも。ニットサークルの集まりの日には夫が送迎してくれるという女性。「帰りはスーパーによって久しぶりの買い物をしてから帰る」とうれしそうに教えてくれました。
別の女性は90歳をとうに過ぎた姑と、震災後に体調を崩したご主人を抱えて小高に帰還しました。イノシシやイノブタ、猿などが増え、農作物を荒らすので「もう畑はやらない」と言います。ニットサークルに来て、仲間とたわいない話をすることが生きがいになっているとのこと。
解除になっても、平穏な生活はまだまだ遠い。改めて今回の事故の大きさを思い知った気がしました。
ベテランママの会
代表 番場さち子