ニュースレター

2016年12月23日

 

被災地・石巻の今(前編)

Keywords:  ニュースレター  震災復興 

 

JFS ニュースレター No.171 (2016年11月号)

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震災から5年半近く。杉浦達也さんは、より暮らしやすい地域を目指してサードステージという団体を立ち上げ、被災者の新たな歩みをサポートする活動を行っています。

JFS代表・枝廣淳子が石巻を訪ね、当時は憔悴しきったみなさんにはとても聞くことができなかった被災時のお話や、石巻での新しい動きなどについて、杉浦さんからお話を伺いました。


3月11日、出先からの帰りに大地震が起きました。その数十分後に大津波が来て車が流されたり、流されてくる方々を助けたり、まわりがパニックでお互いに助けたり助けられたりしながら... 夕方になり、まだ小雪がちらつく寒い中、山の上で一夜を車の中で過ごしました。

日が昇り、山の上から見下ろした町は黒く見えました。ガソリンがなかったので、私は安全な所に車を置いて、徒歩で親戚や知人を探しに向かいました。市内中心部に向かう道はほとんどが水没し、土手の一本道だけが通れる。そこを何百人という人が行き来し、みんな情報交換しながら歩いていました。

友だちには会えたのですが、探していた人たちには会えず... 暗くなってきたので、近くの母校だった中学校の避難所に行きました。人探しをしながら。そこには、不安を抱えた人たちが何百人と集まっていました。

翌日も人探しをしました。周りや知り合いからの情報で「あっちは通れる、こっちは絶対無理だ」とか、中には「あそこの橋が沈んだ」「物を取り合って殺人がおきた」などウソの話も出始めましたが、そういう情報が飛び交う中で少しずつ情報を仕入れて。でも、あまり動けなかった。

避難所での1、2日目は、何も食べられない状況でした。3日目の夕方だったと思いますが、山側の農村部で会社をやっている方が、保管してある冷凍の饅頭を届けてくれました。あまりにも避難所に人が集まったものですから、1人1個配れない状況で、半分ずつ食べた記憶があります。

避難所生活の中で、子どもたちにすごく感心しました。中学校の生徒たちがトイレ掃除をしたり、自分たちから率先して動いたりしていて。そういう姿を見て、大人たちも気づくことがあったと思います。このときの自分は、何かしていないと落ち着きませんでした。そんな時にJENの活動を見つけ、「ここだったら、少しでも人の役に立ちながら『周りの事を考えられる』」と思い、JENに入り活動するようになりました。

4月後半から8月いっぱいまでは、仮設住宅への物資配付の責任者として頑張らせてもらいました。世界各地からの支援金を元に、仮設住宅約8,000世帯、石巻市全体の134団地に布団や歯ブラシなど60品目以上の日用生活物資を、入居前に配付しました。無事に全世帯に配付することができ、一日も早く入居していただけた事がすごくうれしかった。

アルバイトさんたちと一緒に物資の配布をし、その中でも一番よかったなと思ったのは、被災した方々が仕事として現場で働けること。動くことで気も紛れるし、自分たちの収入にもつながる。周りの状況も確認しながら、被災者が被災地のために動く、そして次へのステップを踏める。

7月頃からは、仮設物資の配布をしながら、石巻市、南三陸町で支援内容のニーズ調査をしました。中でも、石巻市牡鹿半島の石巻側のほぼ全部、30以上の浜でのニーズを調査しながら、それぞれの浜に合った支援をしていきました。

牡鹿半島は石巻市の中でも端に位置していて、震災直後も、行政や消防、警察、ボランティアも含めて、人が入りにくい場所でした。津波の影響で、道もふさがれたりして、全然人の手が入っていなかったのです。ライフラインの復旧も市内の中心地に比べて遅れていると聞いていました。

「牡鹿半島は全然人の手が入っていないから、牡鹿半島に入りましょう」ということが決まり、支援が始まりました。いろいろ動いていく中で、牡鹿半島事業として大きく形として生まれたのが「浜友」や「浜こん」、「浜へ行こう!」などの活動です。「各浜で今、本当に必要なものを」という支援をさせていただいたのは大きかったです。

「浜友」の取り組みについて

牡鹿半島の根元に佐須浜という浜があり、震災前は43世帯、約135名が暮らしていました。2011年3月11日の東日本大震災直後にはみんな浜を離れざるをえなくなり、6世帯、約20名まで減少しました。

私がこの浜に初めて入った時は、話せる人が漁協関係者や区長さん、地域のお母さんの4人でした。その中で、「地域の人たちが全然話せていないんだよね」という話を聞きました。

漁協関係者や区長さんにも手伝ってもらって地域の人たちに集まってもらい、1回目の話し合いができたんです。「この先どういうふうに考えていくか」を話せればと思いましたが、皆さんの口から出た第一声は「まだ先は考えられない」「わからない」というものでした。

そこで、まず始めにコミュニティの話から始めようと思って、皆さんに声がけをしながら毎回集まってもらい、そのたびに地域の昔の暮らしや現状、どうなっていきたいのかを聞きました。回数を重ねるごとに、皆さんの口から、「昔はこうだったんだよね」という話が出るようになってきたんです。

自分たちから話せるようになってきたので、「皆さんが、この浜をどういうふうに考えていきたいかを話しましょう」となった時に、「この浜では、自分たちが作っている牡蠣がいちばんの自慢なんだ」という話になりました。

ここの牡蠣は身が締まって味わい深くおいしい。そこで「せっかくだから、自分たちの牡蠣をみんなに食べてもらいたいね」ということで、牡蠣小屋が始まったんです。

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「またみんなに帰ってきてもらえるように、集まって話せる場所をつくりたい」と、プレハブで集会所をつくろうという話も出ました。

牡蠣小屋が始まると人が集まるようになって、集会所にも震災後初めて地域の人たちが戻ってきて話ができたんです。話が弾むようになって、会話も増えてきて、半年ぐらいたった時「集会所だけでなくて、ここでもっと何かできることがないかな」という話が出てきたんです。

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いろいろな案が出てきたんですけど、お母さんたちの手料理がおいしかったのと、お父さんたちが小型定置網で朝獲ってくる魚がいっぱい揚がっていたので、「食堂をやろう」と言うことになりました。

お母さんたちの熱が上がってきたので、そこからはお母さんたちで話を進めてもらいました。自分たちの意見がすごく出てきて、これなら継続して、ボランティアさんや外から来てくれる方々も、ここに帰ってきたときに浜の味を食べられる場所ができそうだと。

お互いに活かし・活かされ、浜のお母さんたちは元気が出てやりがいも感じてくるし、来てくれた方々も、少しずつだけど浜も変わってきたな、という現状もわかるし、牡蠣や浜のものもおいしく食べられる。

ここのお母さんたちは、「せっかくみんな来てくれるんだから、地元のものを地元の値段で、食べやすくしよう」と、値段も抑えました。みんなが寄れる憩いの場、居場所にしましょう、と。「浜友」という名前は、「浜の友」と思っているんですけど、そもそも、そういう名前の浜遊びがあり、そこから名付けました。

やり始めたら、お母さんたちがすごく生き生きし始めました。今では別の仮設住宅にいた方々も「帰ってきたい」と話しています。今のところ十世帯位は戻ってくるという話を聞き、少しほっとしました。

私も毎週1回はここで食べます。「浜友」が皆さんから愛されているのをすごく感じますし、自分も最前線でかかわらせてもらってよかったなと強く感じる場所の1つです。自分から見ると実家みたいで、いつも「ただいま!」と言って帰ってくるんです。ボランティアさんも「今度また浜友に連れていってね」と言ってくれます。

最初に建てた時は、灰色の掘っ立てでした。ボランティアの方々とこの辺り全体の清掃活動をした時、浜のお母さんやボランティアさんから「ペンキ塗って可愛くできたらいいね」という話が出ました。浜の人も一緒に作業していたので、次の清掃活動の時にペンキを塗ることにしました。

丸一日かかるところ、ボランティアさんの力で半日ぐらいで終わりました。一緒にやっていると、外から来てくださる方々のマンパワーだけでなく「気持ち」とか「繋がり」、いつもそこに心を動かされます。

いろいろな思いで被災地に来ている人もいると思うのですが、結果的に来てくれているということと、一緒に汗を流してくれて、ああだこうだ一緒に考えながら話している間に、コミュニケーションが生まれてくることが本当に楽しいです。

毎年、宮城県で地産地消のコンテストがあるんですが、今年の春に、この「浜友」が準グランプリを取る事ができました。今ではコミュニティの中心的な居場所にもなっています。

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後編につづく)

一般社団法人サードステージ代表理事 杉浦達也
(編集:枝廣淳子)

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