ニュースレター

2014年04月01日

 

ありがとうを「FUGURO」に詰めて

Keywords:  ニュースレター  市民社会・地域  震災復興 

 

JFS ニュースレター No.139 (2014年3月号)


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仙台市から南に約26kmに位置する宮城県亘理町(わたりちょう)。2011年3月11日、東日本大震災とそれに続く巨大な津波は、人口約35,000人だった町の約300人もの命とそれまでのあたりまえの暮らしを奪っていきました。海岸地域の家々は一つ残らず流され、今もなお多くの方々が仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。暮らしを支えていた農業や漁業、活気のあった港もまだ元には戻っていません。地域のつながりも断たれたままです。

そんななかでも、さまざまな試みが生まれています。地元の女性たちの手仕事プロジェクトで「FUGURO」の製作と販売を行うWATALISもその一つです。団体WATALISを立ち上げ、代表を務めている引地恵さんにお話をうかがいました。

――「FUGURO」って何なのですか?

着物地で作った巾着袋です。裏地がついていて、両引きの紐で口を締めます。お世話になった人などに感謝をこめて手渡すお礼の品を包むための袋なのです。亘理町の職員だったとき、学芸員として行った民俗調査で、「昭和30~40年代頃までは、農家ではモンペなどの作業着を着物地で仕立てていた。そして、端切れを縫い合わせて巾着袋を作り、いつでもお返しができるように備えておいた」と聞いたんです。

農家ですから、お米や豆を入れてお礼にしたり手土産にしたりしていたそうです。「ふくろ」がなまって「ふぐろ」と呼んでね。"感謝するのに備えておく"という生き方がいいなあと思いました。そうすると、感謝することを探して生きているから、次々とそういう場面にいきあたるでしょう? 震災後にこの「ふぐろ」を再現して、WATALISが製作・販売しているのが「FUGURO」です。

――日本には昔から、懐紙やポチ袋をバッグに忍ばせておいて、いつでもお礼を包んで渡せるようにしておくという文化がありましたね。

ええ。震災後、亘理町に何度も来て下さるボランティアの方が多かったんですよ。「この町に来ると、『ありがとね』『これ、お礼に持ってって』と言ってもらえるのがうれしい」って。それを聞いて、自分たちでは気づかない"感謝を形にするという町民性"が「ふぐろ」に象徴されるのかなと感じたんです。

――どの「FUGURO」も素敵ですね

日本中から提供いただいている古い着物地を再利用して作っているので、ひとつひとつオリジナルなんですよ。華やかな伝統柄、昭和初期のレトロモダンな柄、子供用の可愛らしい柄、渋めの紬、伝統的な絣など、買って下さる方との一期一会の出会いです。裏地は新品の布を使っていますから、気持ちよく使っていただけます。

――WATALISを立ち上げようと思ったのはいつだったのですか?

震災後に、浸水した沿岸部から家の取り壊しが始まり、内陸部でも地震で全壊した建物を壊し始めました。何十年も前に閉店していた古いお店を壊すので、資料館で必要なものがあったら収蔵資料にしたらと声がかかって、調査に行ったんです。

その中に、小さな呉服屋さんがありました。外では重機が待っていて、必要な物を出したらすぐ壊すという状況だったのですが、着物の反物が積まれているのが見えた時、ハッと「ふぐろ」を思い出して、ゴミ袋3つ分ぐらいの生地をもらって帰りました。私の妹や母、友人と4人で「ふぐろ」を作り始めたのが、震災の年の秋でした。

作ったものはバザーなどで売っていたのですが、民俗学の先生が「文化を商品という形で販売することは、地域の返礼文化を皆に知ってもらい、縫製の技術を次の時代に残していくためのとても良いやり方だ」と言ってくださって、学会で売ってくれたり、と少しずつ続き、東急ハンズでも復興グッズとして扱ってくれました。だんだん量も増えてきたので、震災から1年後の3月に、19年勤めた役所を辞め、WATALISに集中することにしました。

2013年4月に契約主体となれる一般社団の法人格を取ったあと、仙台三越などの地元のデパートなどのほか、丸井グループや小田急百貨店など、東京でも売れるところが増えてきた感じです。

――大手百貨店でも販売できる高い品質はどうやって作り出しているのですか?

本格的に売り物にしようと考えた時、民俗調査で知り合った地元の和裁・洋裁の学校の先生にお願いしました。先生が言うには、「ふぐろ」をみんなが使っていた時代は、200人ぐらい生徒がいて、嫁入り前に家族の衣類は必ず自分で縫えるようになっていたそうです。

先生に最初に「どのレベルを狙うの?」と聞かれました。「お店で売るのか、バザーで売るのか、人にあげるものなのかによって、教え方も全然違うから」と。私、直感的に「お店で売る」って答えたんです。厳しくしっかり指導してもらいました。

――材料はどうしているのですか?

最初に取り壊し直前のお店からいただいた反物がなくなるころには、話を聞いたり「FUGURO」を買ってくださった方から、「家にあるから使ってくれないか」と次々と着物が届くようになりました。もう着ないけれど、または家族の大事な着物だったけれど、捨てたり安く売ったりはしたくない、思い出の着物をいい形で活かしてもらえるなら、と提供いただくのが相次ぎ、この1年で段ボール箱200~300箱、1トン以上届きました。

――作り手は?

友達や和裁・洋裁の先生にも声を掛けてもらったり、内職の求人広告を出したりしました。30~40代の本気で仕事にしたいという人たちを中心に、今は約40人が登録し、常時20数人が自宅で内職し、週1回の研修会に参加しています。一人前になるまでは、1~2カ月はかかります。子供がいてもできる、震災の後なので家族と連絡がつくところで働けるのがうれしいと言われます。

――数十人の仕事を作り出せているのはすばらしいですね。「FUGURO」はどうやって作るのですか?

まず、着物をほどいて洗い、アイロンをかけます。これは縫う技術がまだ高くない人にやってもらいます。

  
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次に内勤スタッフが布を裁断して、色を合わせて裏の生地と紐をセットにします。縫い手はこのキットから始めますから、速い人だと1時間から1時間半ぐらいで仕上げます。でも現在は、全員でも月に300枚が限度ですね。

 
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――日本の着物は、糸で布を縫い合わせてあるだけなので、糸をはずせば布に戻せるのですよね。そうして、仕立て直しをしたり、子供用に作り直したりして、着物としてボロボロになったら、最後は雑巾やおむつにして使い切ることがかつては普通でした。ですから、全国から寄せられる古い着物も、糸を抜けば布に戻るのですね。平均的な着物1着から、いくつの「FUGURO」ができるのですか?

一番大きい(一升)サイズで5つくらい。使い残しの布でヘアアクセサリーなどの小さな雑貨も作っています。地元のおばあちゃん方は「小豆3粒包める物は捨てるな」と言います。それぐらいの大きさがあると「何かに使える」と取っておくんですよ。昔はつぎあてなどで使えたから、それが美徳だったのでしょうね。

細かな糸も捨てない。なぜかなと思うと、この町では養蚕が盛んだったのですよ。お蚕を飼っていて、糸を取るところを見て育った人が多い。だから大変さが分かるんです。自宅で飼っていた蚕から取った糸で、お母さんが織って布にして、それを仕立てて嫁入りに持っていった着物となると、傷もうが着る機会が無かろうが、捨てたり売ったりできない。

だからこそ、私たちも小さな布も使いたいし、色あせた生地も使いたい。裂き織りも勉強していて、小さなポーチを商品化しました。余すことなく使いたいと思っています。

 
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――使い切ることは、日本の文化の「もったいない」を形にすることですものね。

その時代の方に話を聞くと、「昔は、特に農家は現金収入がないから、家で衣類を仕立てるほうが経済的効率が良かった。でも、経済の発達につれて、家で作る手間をかけるより、外で働いて現金をもらって買った方が良いという時代に変わってきて、いつの間にかやらなくなった」と言います。何か不思議ですよね。

――今後、活動をどのように展開していきたいですか?

デザインの勉強もしたいし、体系立てた教育もやりたい。運営側も経営などの教育を受けたい。私たちがやっていることは、女性の自立、伝統文化の伝承、被災地からの復興活動、着物地に込められた日本人の美意識の素晴らしさの再発見、リユース・再生文化など、さまざまな要素がありますから、伝え方も工夫したいと思っています。

目標は、内職の人にボーナスを出すことなんです。もちろんお客さんは大事です。そして、内職でやってくれている人もすごく大事です。百貨店などで売れたりすると、一緒にとても喜んでいます。自分の仕事の価値、自分の価値を感じられるって。仕事を通してお金を得るのも大事ですけど、「私はもっとできる」「一生懸命やればどういうことでも達成していける」というイメージが持てると言われるととても嬉しいです。

それから、皆が集まる場づくりもやっています。比較的簡単な手芸をやる会で、毎回たくさんの人が来ます。この場があることで、同じ町に住んでいても話したことがない人たちや、世代が違う人たちが話をしたり友達になったり。他県(特に福島県)や外国から来る人もいます。町内のおばあちゃんが「ここに来ると、笑って、年が若くなって帰るの」と言うのがすごく嬉しい。

会のある日以外の午後は、その場所を開放してサロンにしています。作り終わらなかった人が作業したり、学校が近いから、WATALISで働いているお母さんの子どもたちが寄って、仕事終わるまで宿題しながら待っていたり。この2年間は補助金で運営していたのですが、補助金がなくなっても何とか続けていければと思っています。

――思い切って役所を辞めて、WATALISに一本化して良かったですか?

私、何十年も前からこれをやっていたんじゃないかと思うんですよ。役所にいた時も、楽しく一生懸命やっていました。そして、今はその5倍くらいは働いている気がします。ものすごい充実ぶりです。

みんなに、もっと夢を実現させてあげたい。自分自身もそうです。田舎に住んでいると、新しいことに手を出したり、新しい人と付き合うリスクをできるだけ避けますから、夢を見てチャレンジしようということは、なかなか承認されません。私も亘理の生まれで、「ここに居るほうが安全だ」と言われて育ち、震災前は仙台ぐらいまでしか出る勇気がありませんでした。

――それが今や、WATALISで世界に打って出ようとされている

ええ、JETROを通じたり、海外のアンテナショップ(バンコクMONOショップ)に置いてもらったり、少しずつ海外でも販売の機会が出てきています。個人向けの通信販売の体制も整えていきたいと思っています。世界の人にも、感謝の気持ちを「FUGURO」に包んで贈るという文化を伝えていきたいです。

――JFSもお手伝いしますね! ありがとうございました。

(枝廣淳子)

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