ニュースレター

2005年07月01日

 

『国小なりといえども、住みよしの国なり』 - 熊本県小国町

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JFS ニュースレター No.34 (2005年6月号)
シリーズ:地方自治体の取り組み 第10回

日本は世界でも有数の森林国です。国土の約3分の2(67%)を占める森林は、古くから水源や野生動物の繁殖の場であるとともに、家屋などの建築材料や薪炭エネルギー、食糧や肥料の採取の場でもあり、またさまざまな神が宿る神聖な場として畏怖されてきました。

木を切り出した跡地への植林の奨励は1550年ごろ、室町時代に山林の荒廃や洪水防止のために始まったといわれています。江戸時代には、建築材料として、杉、ヒノキ、松などの造林が各地で盛んになりました。現在、日本の森林面積に占める人工林の割合は約40%ですが、低価格の外材の影響等で経済的に維持することが困難なうえに、過疎化や高齢化、後継者の不在などから、手入れが行き届かず荒廃しつつあります。

一方、2005年2月に発効した京都議定書では、日本は1990年比6%削減のうち、3.9%を森林の二酸化炭素吸収として計上していますが、このためには適切な森林経営が求められています。

約20年前から、地域の木材を活用して近代的な木造建築物を生み出し、木の文化の復権を目指してきた町があります。地域に新しい風を呼びおこしつづけている熊本県小国(おぐに)町の元気な取り組みをご紹介しましょう。


新しい木造建築への取り組み

小国町は、九州のほぼ中央、世界一のカルデラといわれる阿蘇カルデラの外輪山から大分県へと向かうなだらかな傾斜地に位置し、人口約9000人、総面積約137平方キロメートルのうち74%を山林が占める農山村地域です。

筑後川上流に位置する一帯は九州山脈の屋根といわれ、年平均気温13℃の高冷地帯で、多雨多湿の気候は良質な杉の生育に適しています。250年の歴史を持つ小国町の杉は「小国杉」と呼ばれ、厳しい気候が木目のはっきりした質量のある杉を造ります。

宮崎暢俊(みやざき のぶとし)小国町長は、町長に就任した1983年、杉の産地である同町で進められていた公共施設の設計が、コンクリートブロックであることに疑問を持ち、同施設を地元の杉を使用した建物へ設計変更しました。これをきっかけに、「林業地自らが流通から加工まで積極的に木の活用をすることが、林業を再び活性化することにつながる」と、町内の公共施設の建築に小国杉を導入していきました。

木造建築の第1号は、1987年に誕生した「ゆうステーション」。木とガラスを使用した斬新なデザインのバスターミナルです。1984年に廃線となった国鉄宮原(みやのはる)線の「肥後小国」駅跡地に、新進の建築家を起用し、日本初の木造立体トラス構法によって建てられました。木造立体トラス構法とは、小径木を特殊な技術でジョイントして三角形の資材をつくり、その集合体を組み合わせることで、柱のない自由な空間をつくるものです。

木造体育館「小国ドーム」も同じ構法で誕生しました。バスケットボールコート2面がとれる「小国ドーム」の屋根は、木造トラス構法による5602本の小径木が支えています。1本1本の小径木には当時の小・中学生の名前が残されており、外観が巨大な亀の甲羅のように見えることから「ビッグ・タートル」の愛称で親しまれています。斬新なデザインの木造建築はほかにも、学校、保育園、物産館等の公共施設から、レストラン、銀行、商店などの民間施設などに次々と誕生し、景観と融合した独自の町並みを形成しています。

宮崎町長が目指したのは、単に地元の木材を使った在来工法の建物ではなく、小国杉という良質な材料と高度な建築技術を新しい発想で組み合わせることで、木の文化を復活し、小国町を個性的で活力のある町へと推進していくことでした。

この構想は「悠木の里づくり」と名付けられ、小国杉による地域デザインづくりのほか、「自然を活用した観光地づくり」「地域資源を活用した特産品づくり」「町民手づくりのイベントづくり」など、6つの目標を掲げての取り組みが始まりました。『悠』は「悠久」「悠々」「悠然」という同町のイメージを表すキーワードです。


変化を受け入れる住民をつくる

1989年、木造立体トラス構法で3つの建物のデザインを担当した建築家、葉祥栄(ようしょうえい)氏は、日本建築学会賞を受賞。小国町の「悠木の里づくり」は、国、熊本県から高い評価を受け、同町の名は一躍全国に知られるようになりました。視察や研修で町を訪問する人が増え、人と情報が一気に流れ込んできました。

「悠木の里づくり」の第二段階では、「出来上がった建物をどのように活用していくか」という、ハードからソフトへシフトしていきました。重要となったのは人材です。同町では未来に挑戦する人をつくることもまちづくりの目標に掲げています。1986年に住民に呼びかけて開設した「おぐに未来塾」や、官民でチームを組んで課題に取り組み、町の政策に反映していく「町民プランニングシステム」などの活動から、さまざまな提案とともにユニークな人材が生まれていきました。

1991年には、町内の6つの地域ごとに「土地利用計画チーム」(現在は「コミュニティプラン推進チーム」)が発足。リゾートブームによる乱開発への危機感や、同年に九州を直撃した台風19号の甚大な被害から、それまで地域づくりに関心の低かった女性や若い人たちも参加意識を持つようになり、チームごとにアイデアを競いながら主体的に取り組む住民も生まれてきました。

行政は住民が活躍できる「場」や「機会」を、条例や助成などの制度を整えることで支援していきました。全国の大学から地域づくりインターン生を迎え入れ、若い外の人の視点から町を見ることで、住民が見過ごしていた自分の地域のよさを再発見する機会も増やしていきました。

このような動きの中で、自らの地域の将来を真剣に考えるリーダーが育ち、その活動に影響を受けた人たちがさらにネットワークを内外に広げていきました。町外からはさまざまな分野の専門家が応援団となってアドバイスを送り、U/Jターンをはじめ、首都圏などからのIターン者も増えています。

現在、小国町にはミニFM局が開局し、タウン誌が発行され、映画、コンサート、美術展など多彩なイベントが年間を通して実施されています。かつての閉鎖的な農山村は、自然環境を保全しながら、開放的で都会的な雰囲気を持った町へと変わりつつあるのです。

宮崎町長は「チャレンジをする人、ユニークな提案をする人に対して、地域は開いていなければならない」と、行政の役割は、頑張っている人をできる限り応援し、守ることだといいます。そんな環境の中で、「ツーリズム」という新しい概念が展開していきました。

1996年に開催された「九州ツーリズムシンポジウム」をきっかけに、小国町はツーリズムをまちづくりの一環と捉え、翌1997年9月には「九州ツーリズム大学」を開校。「ツーリズム」をテーマに、講義とフィールドワークを通して、農山村でツーリズムを実践していく人材の育成やネットワークづくりを目的とした学びと交流の場が誕生しました。

8年が経過した時点で受講生はのべ1000人以上となり、世代、地域、職業を越えた卒業生の自主的なネットワークは、全国に広がっています。町内でも地元の食材を提供する農家レストランや自宅を宿泊施設に開放する「民泊」が試みられ、町外から移住する人も現れています。

小国町ではツーリズムとは、出会いや発見、交流を通して、新しいエネルギーを生むための装置だと考えています。そのエネルギーによって進んでいく小国町の次の姿から目が離せません。

参考URL
http://www.town.oguni.kumamoto.jp/ognhtml/index.shtml (小国町)


(スタッフライター 八木和美)

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