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新しい政治リテラシーを身につける

ダイワJFS・青少年サステナビリティ・カレッジ 第4期・第8回講義録

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毛利嘉孝氏
東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科准教授

専門は社会学・文化研究。特にメディアや文化と政治の関係を考察している。京都大学経済学部卒。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにて、MA(メディア&コミュニケーションズ)およびPhD取得(社会学)。九州大学大学院助手、助教授を経て現職。2002~2003年ロンドン大学客員研究員。Inter-Asia Cultural Studies(Routledge) 編集委員。主著に『文化=政治:グローバリゼーション時代の空間の叛乱』『ポピュラー音楽と資本主義』、『ストリートの思想―転換期としての1990年代』など。

◆講義録

受身では見えないものがある

今日のテーマにある「リテラシー」とは、読み書き能力という意味だ。「政治リテラシー」とは、つまり、政治の読み方、政治の書き方を身につけよう、ということである。

何かを「読む」とき、ごく漫然と見聞きするだけでなく、自分が積極的にかかわることによって、初めて見えてくることがある。「書く」ことは「読む」能力にとっても重要なのだ。政治へのかかわり方で近ごろ面白いと思うのは、映像やインターネットを使って発信をする人がとても増えていることだ。ほんのちょっとした発信をするだけでも、政治の見え方がまったく違ってくる。

現代社会は、人々を受動的にする社会である。昔であれば、人を支配するときには強制力を持った権力が用いられていたが、現代社会は視覚によって支配されている。視覚を操るのはメディアである。そうした今の政治を、目を凝らして自分が住んでいる都市や街を見て、日常的なやりとりの中で何とか取り戻すことを考えたい。

「政治」と言うと何だか遠く感じる人も多いかもしれない。今「政治」と言ったときに何となく嫌な感じがするのは、結局のところ私たちの無力感から来ているのではないか。私たちの政治への関与は、ほとんどの場合、選挙の投票を通じた間接民主主義という形に切り詰められている。けれども、それだけだと何も変わらない。多くの人がそうした無力感に悩まされている。

日本でも1970~80年代に市民運動や社会運動が盛んになる。けれども、当時のそうした運動も既存の政治の形式をどこか模倣していたように思える。明確なリーダーやそれを支える知識人が存在して、その指導の下で活動が行われることが多く、ボトムアップ型ではなかったのである。今の新しい若い人たちの運動は、そうではなく、一人ひとりが何かを積み上げていくような仕組みだ。選挙などでリーダーを選ぶ代わりに、直接、自分自身が民主主義にかかわるものであり、国会や議会に行って政治に参加するのではなく、日々の生活の中で考えていくような政治だ。

与えられた選択肢から何かを選ぶのではなくて、むしろ身の回りにいる人と話し合って合意形成を行う政治が考えられないか。ここでとても重要になっているのは、「国家」ではなく「個人」を主体に考えることだ。例えば、「この街で自分に何ができるか」など、ごく小さな単位で考えることを通じて、同時に世界にもつながる広がりも視野に入れることができないだろうか。

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DiY(Do it Yourself=自分でやってみよう)の発想で、街で起こっていることを自分で撮影し、YouTubeに動画を流したり、フリーペーパーをつくって発信していくといった動きが各地で生まれている。こうした特徴を持つ、いまどきの政治的なムーブメントを3つ紹介しよう。


「住民」とは誰か?

1つ目は世田谷区・下北沢の駅前再開発の話だ。2006年10月、東京都は、環七と同じ広さで最大幅26メートルの道路建設と、駅前広場ロータリーを含む区画街路の事業認可を下ろし、まったく同時期に、世田谷区の都市計画審議会は、高層ビル建築を容認する計画案を承認した。

この計画にはいくつか問題点があった。まず下北沢の街のにぎわいを分断してしまう。下北沢の駅前は、雑貨屋、レストラン、洋服屋、コーヒーショップ、ライブハウスなどがごちゃごちゃと立ち並び、それが街の魅力になっている。この開発が進めば、こうした小規模店舗の多くは立ち退きを強いられ、車の往来を気にせず、歩いて楽しめる町としての魅力が破壊されるだろう。

この開発は「住民参加なき計画だ」と言われている。「下北沢フォーラム」の発表した調査によれば、この計画には、下北沢を利用する人、つまり、店舗の経営者などビジネスをしている人や、周辺に住んでいる若い人などの60%の人が反対している。だが、開発について世田谷区はそうした「住民」と真摯な対話をせずに、下北沢に土地を持っている地主を中心に話を進めている。地主の多くは、駅前にビルや店舗を持っていても、そこに住んでいるわけではない。そのため、街の魅力そのものより土地代が上がればいい、という考え方をする人さえある。若い連中が24時間騒いでいるような今の状態を、好ましく思っていないことも多い。

実際に街を利用している人の声を届けようと、「Save the 下北沢」というグループが結成された。これが住民運動としてユニークなのは、ミュージシャンや演劇人、作家などいわゆる文化人が多数参加している点だ。こうした運動を支える形で、「下北沢フォーラム」という、商店街の人たちの集まりも発足している。さらには、裁判を通じて問題を考えようという組織「まもれシモキタ!行政訴訟の会」も結成された。

従来の住民運動は、そこに土地を所有し、住んでいる人が中心となることが多いのだが、下北沢の場合は、厳密に「住民」といえるかどうか分からない人がたくさんかかわっている。行政としては、従来の考え方であれば相手にしなくてもいい人なのかもしれない。通常、行政が大事にするのは、基本的に土地所有者であり、せいぜい住民登録をしている人までである。だが、伝統的な「住民」ではない人たち、特に学生やフリーターなど若い世代が中心となって運動をつくり、この街の店に出入りしているような有名人にも声をかけて、広がりを見せてきているのが、下北沢の面白いところだと思う。

運動の進め方にしても、今まで「政治」と呼ばれていたような領域とはまったく違う展開になっている。彼らは、シンポジウムやライブ、あるいは展覧会やカフェトークのようなイベントを組織して、まるで文化祭のようなノリもある。

現在、残念ながら再開発計画は止まっていない。けれども、若い議員からも「この開発は本当に必要なのか?」という声もあり、見直しを求める雰囲気があることに期待したい。


地元商店街を拠点に「祭り」を続ける

2つ目に紹介したいのは、杉並区・高円寺である。ここで取り上げるのは、高円寺駅そばの北中通り商店街にある、「素人の乱」という変わった名前のリサイクルショップの話である。「素人の乱」は松本哉さんという店長を中心に、商店街の中で次々と増殖を続け、今は古着店やカフェなど含め14号店までできている。

「素人の乱」には、昼は喫茶店で夜は飲み屋になる店もあり、その一角ではインターネットラジオ放送を行うなど、いろいろな面白い企画を仕掛けている。その一方で、松本さんやその仲間たちは、非常にデモ好きだ。例えば、家賃を払わされるのはおかしいという「家賃をただにしろ」デモとか、駅前に置いた自転車を区に撤去されことに抗議する「おれのチャリンコを返せ」デモとか、主張だけ聞くと冗談とも本気とも付かないものがたくさんあるが、よく聞くと、お金がない若者たち(「貧乏人」と彼らは言っている)が、どうすれば楽しく生活できるかを真剣に考えていることがわかる。

彼らの試みは、お金をできるだけ自分たちの中で回すDiY経済とでも呼べるかもしれない。仲間と集まるときにも路上で飲み会をやったり、小さなイベントスペースで映画の上映会やトークイベントを開いたりしている。必ずしもお金儲け目的ではなく、自分たちが楽しめる場をつくろうとしているのだ。

面白いなと思うのは、彼らが地元の商店街の人たちと仲がいいことである。若い人が無茶をやるのを、地域の大人たちが温かく見ているという点では、住民運動として見ると初めてのケースだと思う。実は意外に「働き者」のスタッフが遅くまで店を開けていることもあり、商店街に活気が出ているからだろう。以前の北中通り商店街は、入口に風俗店があり、道が細いこともあって、女性が夜に一人では歩きにくい雰囲気があった。シャッター街とまでは言わないまでも、借り手のない空き店舗がいくつか出ているような状態だったのだ。

彼らの政治運動は、一種の「祭り」である。デモで掲げる「家賃をただにしろ」とか「自転車を返せ」などは、今の若い人たち、とりわけフリーター層と呼ばれる人たちの切実な願いだ。ただし、それ自体の解決を要求するためではなく、自分たちでなんとか自律した経済をどうつくるかという視点を持っていることが、とても面白いと思う。彼らフリーター世代のサバイバルなのだろうと思う。


コミュニティ空間としての公園を守る

最後に、渋谷駅にほど近い渋谷区立宮下公園の「ナイキパーク化」反対運動を紹介しよう。ここは、ごみごみしている駅周辺では唯一緑が残っている場所で、1990年代の中ごろからは、都内のほかの大きな公園と同様、野宿者が増加した。さまざまな社会運動のデモを行うときの出発点として使われることも多い。この公園のネーミングライツをナイキが渋谷区から買い、スケートボード場をつくり一部有料の「宮下NIKEパーク」にする計画が持ち上がり、その反対運動が展開されている。

反対派が掲げる理由は、この計画の裏にホームレスを追い出したいこと、デモなどに使ってほしくないという区の姿勢が透けて見えることだ。さらに手続き上の問題もある。この計画は区長と一部の区議会議員のトップダウンで進められ、公園利用者にほとんど知らされず、正式に区議会に諮ったわけではない。民主的な手続きを踏んでいないというのだ。正式な合意形成なしに、区の施設が一企業の宣伝に使われていいのか、という問題である。

現在(2010年5月現在)、宮下公園には、支援者たちが交代で工事着工を防いでいる。この運動には、かなり早い段階から、アーティストなどが参加しているのも特徴的で、さまざまな作品を持ち込んだり、現場で制作したりして、展覧会や映画の上映会も行っている。

この問題を宮下公園だけで考えると、ちょっと誤解されるかもしれない。彼らがやっているのは不法占拠なのではないか、という見方もあるだろう。だが、もう少し広い時間軸で考えてみたい。

渋谷の宮下公園から代々木公園に至る地域は、1990年代以降、社会運動にとても重要な役割を果たしてきた。当時、多くのイラン人が仕事を求めて日本にやってきたのだが、バブルがはじけて仕事を失い、代々木公園が彼らのコミュニティ空間として機能していた時期がある。

同じころ、増加する野宿者に対する攻撃が顕在化していった。それに対して、「いのけん(渋谷・原宿生命と権利をかちとる会)」や「のじれん(渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合)」といった活動が学生を中心に生まれていった。「年越し派遣村」をはじめたとした、貧困問題の解決に奔走する湯浅誠さんもここで活動していた一人だ。今の宮下公園にかかわっている人の中には、当時から活動していた人もいる。90年代からの構造変化の延長線上にこの問題を考えると、必ずしも単なる不法占拠とばかりも言えず、少し違ったものが見えてくるのではないだろうか。

「政治」というと、何となく国政ばかりが思い浮かぶが、今日は東京の街中で起こっている、身近な「政治」の例を見てきた。少しでもかかわり始めると、地域で何が起きているかがよく見えて興味深いはずだ。逆にいえば、住民が地域の政治に関心を払わないと、行政は一部の利害だけで物事を進めてしまうこともあるのがよく分かる。国単位だけでなく、もっと身近で起こっていることにかかわり、そこで見たことや感じたことを、自分たちのメディアで発信すること。そうしたかかわり方が、「政治」を自分たちの手に取り戻すために大事なことだと思う。


「私が考えるサステナブルな社会」

人を受け身にする今の社会だからこそ、目を凝らして街中で起こっている身近な「政治」の現場を見て、少しでもかかわってみるといい。そして、見たことや感じたことを、自分たちのメディアで発信する。そうした姿勢が、「政治」を自分たちの手に取り戻すために大事なことだと思います。


「次世代へのメッセージ」

「政治」を国家ではなく個人主体で考えてはどうでしょうか。従来は市民運動さえトップダウンだったが、今は一人ひとりが何かを積み上げていくボトムアップ型が求められています。与えられた選択肢から何かを選ぶのではなく、自分たちで合意形成を行う中で、新しい「政治」のあり方が見えてくるのではないでしょうか。


◆受講生の講義レポートから

「『政治』と聞くと遠いイメージでしたが、軽やかな雰囲気で実践している人の事例を見て、『何かしたい』という気持ちが政治にもつながるものだと改めて感じました」

「サステナビリティには無数の視点があり、小さなことをコツコツと、そして大胆に活動すれば、自分にもできることがあると自信が持てました」

「山谷の問題に地元住民の協議会を手伝うという形でかかわっているのですが、一体どの視点で考えるのがいいのか悩むことも多くあります。街に愛着を持つ生活者がどう動くのかが大切だと改めて思いました」

「政治が国家のものから自分の暮らす場所に戻っていけたらステキです。考えるだけでワクワクしてしまうし、だからこそ、事例にあった人たちが楽しそうにやっているのかなと思います」


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