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東京に生きるアイヌ―日本の先住民を知る

ダイワJFS・青少年サステナビリティ・カレッジ 第3期・第8回講義録

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長谷川修氏
「レラの会」代表、「アイヌウタリ連絡会」事務局長

北海道生まれ。東京の鶴川農村伝道神学校を卒業後、鳥取の教会を拠点に社会問題に取り組む。アイヌ民族グループ「レラの会」代表。首都圏のアイヌ団体でつくる「アイヌウタリ連絡会」事務局長。現在、山梨県在住。建設業の傍ら、自然農にも取り組む。

◆講義録

はじめに、アイヌ語で自己紹介してみよう。

 イシカラホントモ チュプカ クシペツ ペニウンクル タカスコタン
 コアパマカ クレコロカトゥ エネオカヒ ハセガワオサム
 クネルウェネ ヌイ キナロクテ ナツヨ チヨ
 (石狩平野の中央、川上にある東鷹栖村で生まれました、長谷川修といいます。祖母の名前はヌイ、母はチヨといいます。)

アイヌ語はいまだ表記法が定められてないので、ローマ字で表記することも、このように片仮名で表記する場合もある。どちらかというとローマ字のほうが、実際の音に近いと言われている。

私は1948年に北海道旭川で生まれたのだが、生後すぐに養子に出され日本の家庭に入り、自分の両親とは生活を共にしなかった。そのため、本来は親から伝承されるべき、母語や民族の文化、精神世界も、家族の生活の中で学び、受け継ぐチャンスを持つことができなかった。だから私はアイヌ語を話せない。アイヌの文化についても、自分で体験し、学ぶことで、身に付けたものはいくつかあるが、伝承という形では受け継いでこなかった。これは私個人の問題だけでなく、日本社会の中で、アイヌがどういう状況にあるかと関連している。


先住民族としてのアイヌ

ちょうど1年前の2008年6月、日本政府は「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を衆参両院の全会一致で採択した。町村信孝官房長官(当時)は、アイヌが先住民族であるという談話を発表した。アイヌが日本の先住民族であると、日本政府が公式に認めたのだ。

そのあと8月から、学者などからなる有識者懇談会が立ち上がり、アイヌに関する施策をこれからどうしたらいいのか、1年かけて総括的に議論を重ねることになった。その報告が、間もなく政府に提出されることになっている。

その素案がつい先日発表されたのだが、その中に「アイヌに関することについて、日本国民共通の知識となってこなかった」というくだりがある。一般的に日本社会では、アイヌ民族について、ほとんど知らされてこなかったのは現実だと思う。その理由についてこの素案では、少数であるためにアイヌ文化が正当な評価をされてこなかったなどと説明されているのだが、私はこれを読み、「そうではない」と感じた。強い言葉で言えば、日本政府は、アイヌが居住していたところを植民地化し、アイヌを滅びた民族として位置づけた、と理解している。日本社会でアイヌ民族について知らされてこなかったのは、かなり計画的、意識的なことであったと私は思う。


商人文化繁栄の陰で

ここでアイヌ民族の歴史について、少しお話ししたい。アイヌと日本の接点は、記述されたものに限れば豊臣の時代から始まっている。以来、江戸、明治、大正、昭和、平成と今日まで続いてきた。

明治時代が始まるころまでは、近江の商人をはじめ、多くの商人が蝦夷地を訪れ、エゾマツ、魚、獣など多くの資源を本州に持っていくことで財を成していた。

そこで、現実問題として起こっていたのが強制労働である。例えば獣を捕る、それを肥料にする、本州に持っていくために何らかの加工をする、そういった労働力をアイヌに求め、強制的に労働に就かせられたのだ。

アイヌは自分たちの生活領域を持って、狩猟採集をして、そこで家族と一緒に生活をしていた。文化を伝承し、自分たちの精神世界を発展させていた。しかしそこで、家族の中でも労働力となる成人した男がどんどん強制連行されていった。その結果、家族や共同体が破壊される。例えば若い夫婦であれば、残された妻は日本の男の妾にされ、日本人に支配されるという状況も起こっていた。

1789年、「メナシ・クナシリの戦い」というアイヌと日本人の衝突があった。近江の商人による、あまりにひどい強制労働や家族を破壊させられたことにいたたまれなくなった、メナシ(現在の目梨郡羅臼町および標津町周辺)やクナシリ(国後島)の若いアイヌたち38人が立ち上がって武装蜂起したのだ。しかし、松前藩が派遣する、いわゆる武士集団によって鎮圧され、38人はすべてが処刑された。今でも函館には、その38人の耳を集めた塚が残されている。


進む同化政策

1869年(明治2年)、それまで蝦夷地と呼ばれていたところが北海道と改称され、北海道開拓という名の下に、日本人がどんどん移住してきた。日本の歴史の中では、「開拓」という表現がごく当たり前に使われるが、私たちアイヌ民族からすると、断りもなく侵入され、土地を略奪されるという意味で、まさに侵略だった。

1871年(明治4年)にできた戸籍法はアイヌ民族に対しても強制させられたのだが、それは創氏改名を強要することも意味していた。アイヌ名を使うことは許されず、日本名を名乗るよう強制された。

さらに日本政府は、地主が多くの土地を持つこと禁じて小作に開放する農地解放という政策を取った。北海道に住んでいるアイヌは、いったん全部の土地を取り上げられた上で1戸当たり5町歩の給与地を与えられ、荒れ地を開拓して農業に従事するよう強制された。

元来アイヌは狩猟採集民族であるため、大々的な農業という考え方やその知識もない。たいていの狩猟採集民族はそうだと思うが、そもそもアイヌは所有権という概念を持っていない。「これはおれの土地だ」「あれはおれの山だ」という考え方はしないのだ。すると、与えられた土地さえ日本人の開拓者に奪われ、住むところも失った。

例えば、寒いから焚き火をしようと山に入って木を拾うと、窃盗になってしまう。川に行って上ってくるシャケを捕っても密漁になってしまう。おなかがすいたからといって、魚一匹取ることも許されなくなった。山で山菜を取るなどもってのほかだ。そもそも他人の土地に入った時点で不法侵入になってしまう。

これが明治20年代ぐらいまでの、アイヌが置かれていた状況だった。想像してみてほしい。家族や共同体が崩壊し、住む場所も食べるものもなくなる。体を暖めるのに燃やすものさえなく、凍死したり餓死したりするほかないという状況だ。


立場によって異なる歴史認識

そこで日本政府は、こうした悲惨な状況にあるアイヌを「保護」しなければならないと考え、1899年(明治32年)に「北海道旧土人保護法」が制定された。これは、「旧土人」という蔑称もさることながら、その内容もたいへん屈辱的な民族差別法であった。「アイヌはもう滅ぼうとしているのだから、日本人になりなさい」というのである。農業を強制し、日本の文化、日本語を強制していった。母語であるアイヌ語を日常会話で使うことを禁じ、アイヌの精神世界や文化を継承することも禁じられた。

成人したアイヌの女性は、手首や足首、口の周りに必ず入れ墨をしていた。アイヌ語で「シヌイ」と呼ばれ、アイヌの女性にとっては名誉なことであり、大人になったという証であるこの習慣も禁じられた。男性はヒゲを生やし、髪を長く伸ばし放題にして、耳輪をするのが伝統的なスタイルだったが、これもすべて禁じられた。特にヒゲを剃るとか髪を切ることについては、かなり抵抗があったと記録されている。アイヌの尊厳を守るために、断食をしてまで抵抗し、その末に餓死する者もあったという。

この保護法は1997年まで生きていた。そしてアイヌ民族に対してさまざまな差別を生み出す背景にもなってきた。

歴史認識というのは、立場を変えるとその内容も変わってくるものだ。皆さんが学んでいる日本の歴史は、あくまでも日本の歴史であって、アイヌについて教科書には数行の記述があるかもしれないが、そこからアイヌ民族を見ることはできないと思う。


首都圏に住むアイヌの現在

北海道には現在、2万4300人のアイヌが住んでいるという。ただし、これはあくまでも自己申告の数だ。一方で都内には、1989年というだいぶ前の調査によれば、2700人のアイヌがいるという。

日本政府は、アイヌ民族の人口調査をしていないため、正確な実態は誰にも分からないが、東京が2700人なら関東全体では5000人程度いると考えていいと思う。いま私は、首都圏在住のアイヌで構成される「アイヌウタリ連絡会」の事務局を務めているが、ここのメンバーは約50人だ。5000人のうち、私がつきあいがあるのはたった50人。首都圏に住むアイヌのうち、99%にはまだ出会っていないことになる。自らアイデンティティを表し、活動をしているアイヌは、ごく一部に過ぎない。

東京で行われている活動の1つに「東京イチャルパ」という供養祭がある。2003年から毎年夏に港区の芝公園で行われている。1872年(明治5年)、開拓使(明治初期、北方開拓のために置かれた官庁)の黒田清隆は、38人のアイヌを強制連行し、東京の「開拓使仮学校附属北海道土人教育所」および「第三官園」に就学させた。後に、そのうち5人が家族・故郷に想いを馳せて亡くなった。開拓使仮学校とは、後の札幌農学校、北海道大学の前身にあたる教育機関だ。東京イチャルパでは、故郷に帰れずに死んだアイヌを、アイヌの言葉で、アイヌの作法で供養しているのだ。


尊厳の回復をめざす対話を

最後に、冒頭で述べた有識者懇談会による報告書についてもう一度触れておきたい。素案の中で「内国民化」という言葉が使われている。アイヌを他民族としてではなく、日本の国内のアイヌの人々と位置づけているのだ。「北方領土は日本の固有の領土」という表現があるが、そこは元々アイヌが先住していた地だ。アイヌも日本人なのだから、アイヌが住んでいた場所も日本の領土だろうというのが、この表現の意味しているところだ。

私の立場から言えば、アイヌ民族を先住民族だと認めるならば、単に先住していただけでなく、まず他民族であることを認めないといけない。日本国内の問題ではない。大和民族と対峙する民族としてアイヌ民族があると位置づけ、そこから話し合いを始めなければ、本当の意味で一緒に行動するということは難しいのではないか。母語であるアイヌ語や文化を、隠れながら細々と伝承し、そして今、自分たちのアイデンティティをさらに発展させようと願う、私たちアイヌの権利や尊厳の回復は、そうした中からしか生まれてこないだろうと思う。


◆配布資料

「東京に生きるアイヌ―日本の先住民を知る」(PDFファイル 約14KB)


◆「私が考えるサステナブルな社会」

アイヌの問題は「日本国内」の問題ではありません。なぜなら、アイヌは他民族だからです。そう位置づけた上で、他者同士として話し合いを始めなければ、アイヌの権利と尊厳を回復し、本当の意味で一緒に行動するということは難しいのではないかなと思います。


◆「次世代へのメッセージ」

日本の歴史とアイヌが歩んだ歴史は、当然異なります。そこで体験することも、まったく異なるものだったと思います。歴史認識というのは、立場を変えると、その内容が変わってくるのです。歴史の教科書に書かれている記述からだけでは見えてこないことがある、ということを知ってもらえればと思います。


◆受講生の講義レポートから

「『日本は単一民族ではない』と教えられて育ってきたつもりでしたが、日ごろ民族を意識することはなく、他民族が日本をどう見ているかを考えることがなかった、ということを改めて感じました」

「『日本はアイヌを植民地にした』という言葉で、アジアの国々にするのと同じことをしてきたのだと気づき、衝撃を受けました」

「一つでも違った価値観を持った人と、どのように共存していくのか、互いに尊重していけるのかを探り合っていくことが大切だと思いました。自分の価値観を強制するのではなく、ふんわりと提供することができたら素晴らしいのではないかと思います」

「アイヌの血を引いていることが、『ハーフ』ではなく『ダブル』だというのは、とてもステキな考え方だと思います」


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