ProjectsJFSのプロジェクト

 

「ここ」から行動を始めるために - ソーシャルキャピタルを生かして「負の遺産」を乗り切る

ダイワJFS・青少年サステナビリティ・カレッジ 第2期・第10回講義録

yoshimotosan.jpg Copyright JFS

吉本哲郎(よしもと てつろう)
地元学ネットワーク主宰、水俣病資料館企画アドバイザー

水俣市役所都市計画課、企画課、環境対策課、水俣病資料館を経て、2008年3月退職。水俣再生に向け、水、ごみ、食べ物に気をつける住民協働の環境モデル都市づくりに参画。対立を「環境都市水俣」をつくるエネルギーに変えていくことを提唱。地元のことを外の目を借りながら、自ら調べ考え、生活文化を創造する「地元学」を提唱し、国内外で実践している。著書に『私の地元学--水俣からの発信』など。

◆講義録

水俣市は、熊本県の最南端、鹿児島県との県境にあります。162.87k_の土地に、1万1000世帯、約2万9000人が暮らしています。「環境都市水俣」を目指した取り組みに力を入れており、2004年と2005年には、2年連続で「環境首都コンテスト」で総合1位になりました。その取り組みを見ようと、今では日本国内だけでなく海外からも人が来るようになりました。でも、ほんの10数年前まではこうではなかったのです。

○胸を張って水俣出身と言える地域づくりを

52年前の1956年、次々にやってくるこれまでにない症状を持つ患者を診察し、現地を調べた細川一院長は5月1日、水俣保健所に届け出ました。水俣病の公式発見の日です。水俣病とは体内に入った強い毒性を持つメチル水銀が、主に脳など神経系を侵す有機水銀中毒です。水俣市にあるチッソ工場から水俣湾にメチル水銀混じりの排水が流され、生態系の中で濃縮され、メチル水銀に汚染された魚介類を食べ続けたことで発病しました。水俣病事件は、多くの人の命を奪い健康を損なっただけでなく、患者とそうでない人を分断し、地域社会を破壊することとなりました。

公式に発見されてから12年後の1968年、国はようやく、水俣病患者をチッソが流したメチル水銀混じりの排水が原因の公害病であると、公式に認定しました。それから、原因企業による救済が行われることになりました。現在の認定患者は2268人です。でも、長い間多くの人たちが救済されず、発生から40年後の1995年になって、裁判をやめることを条件に1万人を超える人たちが政治解決で救われることになりました。大阪で裁判を続けた人たちに2004年、最高裁の判決が出ました。水俣病の拡大を防止しなかったことに対して、国と県には責任があるとする判決が出たのです。以降、新たに水俣病の申請をする人が5000人を超え、新たに裁判を起こす人も1500人を超えるなど、今なお救済を求めている人たちが大勢います。水俣病事件はもはや合理的な解決は困難な状況に至っています。

患者たちが健康を害し、命までも奪われただけでなく、水俣市民も水俣出身ということが分かると結婚の話が壊れたり、就職がダメになったりしました。大阪で働いていたある女性は、水俣出身だということで仕事を3回も辞めることになったと聞きました。ある若者がバイクで水俣を通りぬけようとして、スピード違反で捕まりました。若者は、感染するのがいやだったから、息を止めて猛スピードで駆け抜けようとしたそうです。30年ほど前、水俣病への差別と偏見がひどかったころの話です。それだけでなく、水俣という名前のついた農産物は売れなくなりました。観光客も寄り付かなくなり、ホテルや旅館では閑古鳥が鳴きました。地域住民の心もすさみ、怪文書が出回ったり、嫌がらせの電話がかかってきたり、悪口を言い合うのが当たり前になっていきました。人間のあらゆる面がすべて出てしまうような、非常にいやな町になっていきました。

問題の解決・共存は問題づくりから
水俣市役所に勤務していた私は、「こんな所におられるか」と辞表を書いていました。ところが1991年になり、熊本県が水俣病問題の解決・共存と、水俣の再生に乗り出すことになりました。私は企画課に配属になり、自分に「逃げるな、正面から向き合え」と言い聞かせてその取り組みに参加していきました。

解決のためには「問題」をつくることから始めようと思いました。私たちは、「答え」ではなく「問題」を間違えていると思ったからです。私の母親は「患者がテレビや新聞で騒ぐから農産物が売れない」と言っていました。その答えは「患者は騒ぐな」です。答えは合っています。問題を間違えています。問題がどんな姿・形をしているのか県と一緒に調べていきました。

また、水俣の再生は環境から始めようとずっと前から思っていました。みんなもそうでした。公害都市の再生は環境再生からだと思っていたのです。

水俣の人たちは、ここに生まれた以上、ここで生きていくしかありません。胸を張って水俣出身といえる地域をつくるしかないのです。そうした思いで取り組み始めたのです。

水俣病問題の大まかな姿・形
水俣病問題の解決と共存に向け、次のような問題を立てました。1つ目は「生きているうちに助けてくれ」という被害者を救済することです。しかしながら、被害者を助ける前に、お金を持っていない加害者を助けねばならないという矛盾が生じました。これが2つ目の問題です。加害企業を先に助けないと、倒産してしまうかもしれない。するとPPPという、汚染の原因をつくった者による負担という原則による患者救済はできないのです。救済とは結局お金なのです。

患者たちは家に帰れば生活が待っていました。そこにいくつかの大きな問題がありました。「失った健康と生命は元に戻らない」という問題です。慰霊、癒し、祈りを始めていくこととなりました。次に「私たちも役に立ちたい」という患者たちがいました。50歳を超えた胎児性患者たちの言葉です。生きがい、働きがいなど、いわゆる地域福祉の領域についても考えなければならない。でも、存在理由の確認の問題がありました。水俣病の体になってこの世に生まれてきた。そこにどんな存在理由があるのか、いくら考えても分からない。答えられない問題があることに気づきました。すると水俣に住む者には、解決できない問題と共存するという覚悟がいるということが分かってきました。

次に、「水俣出身とは言えない」という問題です。水俣から外に出て働いている人たち、楽しいはずの修学旅行で、「布団を消毒しないといけないかねぇ」と旅館の人たちから言われたりして、泣いて帰ってくる子どもたちがいました。また結婚や就職などに大きく影響しました。水俣の人たちは、水俣出身ということをひたすら隠し続けてきたのです。

ある患者が言いました。「このままでは俺たちの犠牲は無駄だ。犬死にだ」と。私は思いました。あなたたちの犠牲は決して無駄にはしません、と。でも言葉になって出てきませんでした。

みんなでやってきたことを振り返ってみて、分かったことがありました。それは、「水とごみと食べ物に、世界のどこよりも気をつける」ことでした。チッソという水俣病の原因企業が有機水銀というごみを流し、水(海)を汚染し、魚に濃縮されて知らず知らずの間に人の体に入っていきました。だから、膨大な水俣病の犠牲を無駄にしないためには、水俣の人にとって、「水とごみと食べ物に、世界のどこよりも気をつける」ことだったのです。

○地元に学び、町や村の元気をつくる「地元学」

水俣再生を環境から始めたと言いました。環境とは何だろうと調べて考えていきました。驚いたことがありました。農業を営む私の母親の言葉を考えてみたら、「環境」という言葉を使っていなかったのです。母は環境ではなくて、「明日晴れるかな」「霜は降りるかな」「桜が咲いた」など具体的なことを言っていました。決して「環境問題」などとは口にしていませんでした。生活現場にいる人たちの多くは、「環境」という言葉を使っていなかったのです。使っていたのは私でした。そしてジャーナリストでした。また、NGO/NPO、学者などの専門家たちでした。環境という言葉は、生活の当事者ではない人間が使う言葉でした。

おそらく母は言うでしょう。「地球環境なんて、見たことも食ったこともない」と。私は思います。私の家と集落が私の地球だと思って行動していけばいいと。水俣も、ここが私の地球だと思って行動していけばいいと思うのです。

愚痴を自治に変える―「ないものねだり」から「あるもの探し」へ 
そこで、1999年に役場でISO14001を取得したり、水源の森を守る活動を始めたり、食品トレイを減らす試みや、不買運動の反対で、環境にいい取り組みをしているお店を褒めるエコショップ認定の仕組みなど、さまざまな取り組みを通して、世界のどこよりも水、ごみ、食べ物に気をつけてきました。学校版ISOは、ごく簡易なマネジメントシステムです。今、県内すべての小中学校に広がり、その後は県外へも波及するほどの広がりを見せていきました。

こうした活動を支えたのが、1991年につくられた地域の自治的組織「寄ろ会」です。地区の活動を世話する世話人たちの集まりです。最初にやったことは、環境に関することを話し合う寄り会いでした。26地区全体で、一斉に行われた寄り合いで、子ども時代に遊んだ思い出を話し合ってもらいました。次に、その場所が今はどうなっているかを話し合い、もし変わってしまっているなら、ではどうすればいいか、を話してもらいました。そのことをまとめて、全体会議を開いて共有していきました。

実は、この取り組みは「自分たちのことは、自分たちでやろう」という自治する暮らしへの仕掛けでした。「寄ろ会」の役員会議で私は発言しました。「役所には陳情しないで自分たちでやれることをやってくれ」と。すると猛反発がきました。でも、どうにか分かってくれて行動していきました。

あとで、分かりました。陳情するのは「ないものねだり」、愚痴なのです。その反対が「あるもの探し」です。それが、つまり自治することでした。地域でも、会社でも商店街でも、愚痴でよくなった試しがない。だから、水俣再生にあたっては、愚痴はやめよう、愚痴を自治に変える必要があると思っていました。

水俣の各地区に何があるのか、あるもの探しをしました。「地域資源マップ」づくりです。でも、ある地区の人が「うちには地域資源は何もない」というのです。私は「川に魚はいるのかい?山の幸は何かい?」と聞いて地図に書きこんでいきました。すると「そんなものでいいんだったら、いっぱいある」となって、地域資源マップがつくられていきました。この経験から、地域資源ではなくて「あるもの探し」に変えていきました。

次に、全部の地区で、みんなで水の行方を調べていきました。すると、農業用水路より低いところに田んぼがあり、その上に農家がある、という具合に、村の風景は水がつくっていることなどが分かりました。また、水源がどこにあるのかが目に見えるようになり、住民による環境アセスメントの柱が1つできていきました。

また、ここに生きてきた人の話を丹念に丁寧に聞くこと、生活を調べること、家を調べ、村を調べると、知っているはずのことも、実はよく知らなかったことが分かってきたのです。

こうした過程で、自分たちが自分たちの周りのことに詳しくなっていくのが大事だと思うのです。大学の先生などの専門家たちが、水俣病のことを調査にやって来ました。でも住んでいる私たちは詳しくなりませんでした。私がやってきたことは、下手でもいいから、自分たちのことは自分たちで調べようということだったのです。私たちは素人だから調査は下手です。それでもいいから自分たちで調べよう、調べたことだけ詳しくなるのだから。

こうした調査を、海の民、野の民、山の民、町の民、みんなで取り組んだのです。地域に住んでいる者が自分たちで、足元にあるものを探し、水俣再生やものづくり、生活づくり、家族づくりなどに役立てていく、今に生かしていく。この進め方を後に「地元学」と名づけました。

○対立のエネルギーを創造のエネルギーへ

2008年2月28日に亡くなった杉本栄子さんのことを話します。網元の一人娘でした。母親が最初に水俣病を発症しました。父親は病院に連れていきました。伝染病だと村の人たちは思っていたので、魚が売れなくなるからということで、村の人たちは患者を家の中に隠していました。しかし、杉本さんの父親は母親を病院に連れていき、しかもラジオで「杉本トシはマンガン病」と報道されてしまいましたから、それからひどいいじめが始まりました。

後に帰ってきた母親は、村の中を歩くなと言われていたのですが、村の道を歩いていたら、隣の人が母をがけから突き落としました。家のガラスは投石で割られました。網子から網を切られました。そんな地獄のようなひどい仕打ちを受けてきました。

父親も発病し、亡くなっていきました。父親は「栄子、網元は、木を大切にして、水を大事にして、人を好きになれ。仕返しはするなぞ、俺がこらえていく。母ちゃんより先に死ぬなぞ」と言って亡くなっていきました。栄子さんは言っていました。「父親の言うことを守るのは難しかったけど、いじめた人様は変えられないから、自分が変わる」と。そうやって生きてきました。でも母親より先に亡くなっていきました。69歳でした。

私は栄子さんが、そして同じ受難を受けた夫の雄さんの考え方と行動が、水俣を変えたと思っています。杉本さん夫婦との出会いが水俣再生の第一歩だったと思っています。当時の吉井正澄水俣市長も自分が変わろうと思い、患者の家に飛び込んでいきました。

私は思うのです。水俣も世間にいやな目に会いました。でも、日本という世間は変えられないから、水俣が変わったのです。問われていたのは私たちだったのです。水俣だったんです。そのことを、栄子さん雄さん夫婦は地獄のような経験から教えてくれたのです。水俣が自分たちで変わるために、世間を頼りすぎずに自分たちのことは自分たちでやるために、足元にあるものを探して、組み合わせたりして新しいものをつくったり、コトを起こしたりしていく。そして町や村の元気をつくっていく。それが後に地元学と名づけた動きなのです。
 
距離を近づけ、話し合い、お互いの違いを認め合う
たとえば「水俣病のある水俣は暗い、重たい」と人がいます。私は考えました。漬物だって、暗いところで重い石で長くつけるからおいしくなる。それなら水俣は、40年も重たい、暗いところにいたのだから、何かが生まれているはずだ。そうでなければ、何のための膨大な犠牲が分からない。水俣病のことを貴重な経験に、新たな価値を創造することが、今の水俣につながっているのです。

タブーだった水俣病について、対立しあう人々が距離を近づけ、話し合い、対立のエネルギーを創造のエネルギーへ転換する。そのためにお互いの違いを認め合う。そうやって、住んでいる私たちが引き受けるしかなかったのが水俣病事件と水俣再生だったのです。

失敗を認め、二度と繰り返さない仕組みをつくり、行動すること
「水俣病事件のようなことは、二度と繰り返してはならない」という教訓があります。でも教訓の前に、反省がないとうまくいかないものです。さらに反省する前に失敗したことを認めないと反省は生まれないものです。でも、勇気を出して「私がしました」と失敗を認めると、マスコミなどが寄ってたかって二度と立ち直れないほど叩いてしまう。失敗したら、二度と浮かばれないようになってしまう。だから失敗を自ら認めない社会をつくってしまったのではないか、と危惧しています。

加害企業であるチッソは今も非を認めているとは思えない。薬害エイズ事件もそうですが、水俣病のような事件は繰り返されている。決して減ってはいない。このままでは、似たような過ちが今後もきっと繰り返されることでしょう。私は同じことを二度繰り返すことを失敗だとしています。不幸にして起こした失敗といわれることも、二度と繰り返さないようにしたら失敗じゃない。一度だけの失敗にして、反省して繰り返さない仕組みをつくることが必要だと思います。

行動は足元からしか始まらない
あちこちで地元学の話をすると、「調べてどうなるんですか?」と聞かれることがある。「どうなるか?」ではなく、「どうするか?」だと自ら思うことだと思っています。未来は意志がつくるもの。「どうなるかなぁ」では、今日と同じ明日しかやって来ない。結局は、自分たちのことは自分でやる自治が問われているのです。

あるもの探しをして、水俣づくりやものづくり、生活づくりに役立ててきたという話をしました。湯布院で「木工アトリエとき」を主宰する時松辰夫さんは、いい町を「自然と生産と暮らしがつながっていて、常に新しいものをつくる力を持っている町だ」と言います。新しいものをつくっていないところは衰退するというのです。では新しいものとは何でしょうか、私は、何もないところから新しいものは生まれない。実は、新しいものとは、「あるもの」と「あるもの」の新しい組み合わせだと考えています。

地球環境のような大きな問題を考えたとしても、行動はここからしか始まりません。自分の足元の「ここ」にあるものを探すことからしか始められないものです。あるものを探すのは誰でもできます。ただし、組み合わせるのは意外と難しいのです。自由に発想するやわらかい感性を必要としています。ある料理人が私に教えてくれました。「冷蔵庫の扉を開けて、あれがない、これがないと言って料理するのは二流の料理人だ。あるものでやるのが一流の料理人だ」と。私は、それを黙ってやる普通の人が超一流だと思っています。

地域の扉を開けて、ないものねだりではなく、あるものを探し、ここから行動することです。また必死になってやってみることです。

地域づくりは問題解決型から価値創造型に変わってきています。会社、社会、生活など、あらゆる場面で、創造的であることが問われています。皆さんには、困った問題を創造的に解決する「社会起業家」になってもらいたい、それが希望のもてる21世紀のこれからを、新たに開拓していくことになると思います。


◆私が考える「サステナブルな社会」

元気な地域をつくるには、人、自然、経済という3つの元気が必要です。ここでいう経済には三つあるとしています。それは、貨幣経済だけではなく、「結い」のような共同する経済、そして自給自足を基本とした私的経済のことです。地域に何がないか、ではなく、あるものを探して組み合わせて新しい価値を創造していく地域づくりが今問われています。

◆次世代へのメッセージ

地域を調べてどうなるか?ではなく、どうするか?を考えてもらいたい。そうでなければ、今日と同じ明日しかやって来ません。未来は自分たちの意志でつくられるからです。本当に大切なことは、与えられた問題を猛スピードで解くことではなく、どんな問題として解けばいいのかという問題づくりです。そして、社会の困った問題を創造的に解決する社会起業家になってください。

◆受講生の講義レポートから

「何よりも印象的だったのは『自治』という言葉です。人間はすぐ人のせいにしてしまいますが、今起きている問題は自分の問題で、まず自分で解決しようとすること、その力が人をイキイキとさせるのだと思います」

「地元学の、足元を調べることが始めること、あるものを認識して生かしていくという考え方が、大学で学んだ『バンブー手法』という途上国援助の手法に似ているなと思いました。今まで援助という視点で考えていたことが、日本の地域や私たちの暮らしに直結するものだと気づきました」

「恥ずかしながら、私の中にも先入観がありました。水俣の海にサンゴがいると聞いて『まさか!』と驚きました。環境、エコといった言葉を毎日目にしますが、『知っている、分かっている』けれども『何もしていない』のが現状だと痛感しました」


サステナビリティ・カレッジ 第2期カリキュラム に戻る

English  
 

このページの先頭へ